松崎 丈
カンゲキ備忘録【演劇】『西洋能 男が死ぬ日』
とき:2019年9月13日(金)
ところ:すみだパークスタジオ倉
Hell's Kitchen46『西洋能 男が死ぬ日』

畏友・はる氏と金曜午後の錦糸町へ。
日本初演となるテネシー・ウィリアムズの、20年来心を寄せ続ける三島由紀夫との交流が生み出した本作を、親交があり密かに敬している(本人に直接言ったことはないが…)広田氏が翻訳したとあっては万難を排して拝見するほかない。
果たしてこれは、限りなくimportantで底知れずdangerousな、その一期一会の邂逅を魂の震えと共に喜ばずにいられない作品と言わざるを得ない。
意図してなのか、公演ウェブサイトにもチラシやパンフにも直接的に述べられていない物語のあらすじは、演劇情報サイトのエントレから拝借することにしよう。
STORY
創作の苦悩を抱えた画家と その恋人の愛憎を描く作品
物語は男が死ぬ日の前日から始まる。
東京のホテル一室、男は過激な技法を用いて抽象絵画を制作している。男はすでに名声を得た芸術家だが、ニューヨークの画廊は彼の狂気じみた試みを気に入っておらず、彼は行き詰っていた。
そこへ、恋人である女が、ホテルに東京帝国大学の法学生ミスター・クニヨシを連れてくる。この11年間、男に全てを捧げようとした女が、男の身に何かあった時のために、法的責任をとらせるためだ。
彼女を引き止めるために自殺をほのめかすようになった男。 仕事にとりつかれ、自分と向き合わない男に我慢がならない女。 女のせいで芸術家としての才能も男性としての誇りも失ったと女をなじる男。
どうにか関係を修復しようとベッドを共にするが、翌朝彼女はホテルを後にする。そして、その時が来る。
この作品を日本で上演することの意義を考えれば、東洋人役に東洋人らしかぬ二人の役者を配したキャスティングの妙をまずは称えなければならない。
もしこの役が、いかにも日本人然とした役者が演じるのならば、我々は鏡に映った自分の姿をただ眺めるだけだ。そこにはロシアフォルマリストの言うところの「異化作用」はない。
我々が我々を相対視するためには、エキゾチックな風貌の呉山賢治氏が必要だったのであり、(僕は拝見していないが)イギリス王の血を引くハリー杉山氏が必要だった。
テネシー・ウィリアムズがこの作品で提示している日本人の死生観は、日本伝統の死生観をある程度理解しているようでありつつも、決して的を射ているとは言えまい。
それを提示されたアメリカの観衆は、「日本人の死生観はかくあるものか」と相当程度の誤解とともに受け取るのではないか。それはそれで良い。およそ人間など、自らの死生観ですら明らかでないままに死ぬのが常なのだし、自民族の死生観にしても正確にとらえることなどあるまい。いわんや他文化圏の死生観を理解するなど離れ業もいいところだ。
しかしテネシーの日本的死生観の提示を受けた当の日本人たちは、それをどう受け止めるのか?
「んなこと、あるかいっ!!」とただ突っ込むだけだろうか?
言うまでもなくそれだけは足らない。「んなこと、あるかいっ!!」という突っ込みの後に、「ならば自分たちの死生観とは?」と自問することこそ肝要ではないか。そしてその答えに、普遍的な到達はできないとしても、個人レベルでの到達をもくろむことが、たとえ到達できなくともその目論見を催すことが求められるのではないか。
劇場の経験を観客が引き継ぐという、僕の考える演劇の理想から言えば、そのような主体的な目論見こそが、この作品との出会いを真に喜ぶ理由なのだ。
この作品をdangerousだと思うのは、あるいは単なる勘違いジャポニズム(とは言い過ぎか?)を植え付け、あるいは「んなこと、あるかいっ!!」という表面的な突っ込みに終始するきっかけになりうる作品だからだ。
もしかしたらテネシーはそのことを百も万も承知で、敢えてこのような死生観を提示したのではないかとも思える。とすればこれは、テネシーが観客にたたきつけた挑戦状とは言えないだろうか。
登場人物の「女性」をどう捉えるか。
僕は途中からこの女性を人間としてではなく、「芸術」あるいは「政治」の具現化と捉えていた。
芸術家を殺すのは芸術に他ならぬのではないか?
その芸術は、はじめは芸術家に甘い芳香を漂わせつつ近づき、やがて峻厳な夜叉の様相を呈してこれを突き放し、しかし自分に殉じようとする芸術家に限りない愛を与える。
その意味で芸術と政治は似ている。政治的技術をpolitical artというのは偶然の一致ではあるまい。
「男性」=芸術家はその芸術に精を吸い尽くされながらも、そのそばにありたいと願い続け、その願いを見透かしたように「女性」=芸術は、今様に言えば「ツンデレ」の手管をもって芸術家を翻弄する。
しかし芸術家にとどめを刺すのは「現実」に過ぎないとも思われる。
芥川が、太宰が、川端が、いわんや三島が、最後の決断をするに至った決定打は現実世界の恋情であり、権力欲であり、自己愛だった言えば言い過ぎだろうか。
そして「現実」は往々にして外的要因だ。
自分の意図せぬところで、外的要因が最後のとどめを刺すのだ。
たとえばあの黒子が、冷徹な所作でスプレーガンを男に握らせ、無慈悲なまでの無表情でそのスイッチをオンしたように。
あの黒子がスプレーガンのスイッチを入れるシーン、僕の心に一気にせり上がってきた恐怖は、次の瞬間には男への限りなき同情となり、僕自身の自己防衛本能を掻き立てて、その混然一体となった感情はただ涙という形をとって僕の頬を伝う他はなかったのだ。
僕がこの作品をimportantだと感じたのは、そのような人生の冷厳たる一面を臆することなく提示している点だ。
おそらく僕は考え過ぎているのだろう。
女はただの女で、男はただの男で、黒子はただの黒子で、そこには芸術も政治も現実も仮託されていないのだろう。
しかしそのような奔放な勘違いを許すだけの懐の深さが本作にはあったのであり、それを単なる観念の遊びとして許さない厳しさがそこにはあった。
それらのすべてを見越したように語る東洋人、その東洋人もまた、やがて死ぬべき男であることを忘れてはならない。
観客として作品と格闘する楽しみを、こんなにも刺激してくれたこの作品との出会い。
敗北の可能性が多分にあるこの格闘の行方を案じるように、午後の錦糸町の空にはどんよりとした雲がかかっていたが、一瞬だけその切れ間からわずかながらに漏れた陽光に、ほんの少しだけ心をたくましくして、僕は帰路についたのだった。