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  • 執筆者の写真松崎 丈

カンゲキ備忘録【演劇】『帽子屋さんのお茶の会』

とき:2020年7月3日(金)

ところ:アトリエファンファーレ東池袋

888企劃プロデュース公演vol.2<不思議の国のアリスの>『帽子屋さんのお茶の会』

 

 劇場に足を運ぶことができる喜びを全身の全細胞で感じながら、雨のそぼ降る金曜の午後、向かった先は東池袋。


 劇場へ入る前、道端に小さな花を見つけました。鉄製の囲いのもと、コンクリートの垣からわずかにのぞいている土に根を張り、可憐なピンク色を揺らしている名も知らぬ小さな花。


 「かくてもあられけるよ」


 『徒然草』第十一段のあまりに有名な一節が心にふっと浮かびました。


 同時に新型コロナウィルスによって公演の延期や中止を余儀なくされた多くの友人・知人の顔が心の中を去来します。数々の公演を楽しみしていたお客様たちの落胆の声が耳にこだまします。


 みんな辛かった、苦しかった、悔しかった、悲しかった。いや、いまも辛く、苦しく、悔しく、悲しい。


 しかしどのような形にもせよ、僕たちは「あら」ねばならないし、「ある」ことを諦めないでさえいれば、「あり」続けることはできるのだ。


 「かくてもあられけるよ」


 大切なのは「あり」続けようとする想いの強さ、たくましさなのだと語りかけてくれるような小さな花。


 作品を創り続けよう、届け続けようとする想いの強さ、たくましさ。その想いを形に変えて、劇場に戻りつつあるカンパニーの数々、心強くありがたいお客様たちの姿。


 いわゆる「コロナ禍」が始まって以来、初めて劇場に足を運んだ僕の中には、小さな花の姿に触発されて様々な想いが行き来しました。そして久しぶりの観劇体験に向けて、僕の心は静かに静かに整えられていったのです。


 劇場に足を踏み入れます。


 舞台の最前面に吊り下げられた透明のシート。感染拡大が予断を許さない現下の状況ではやむを得ない措置でしょう。


 しかしながら、一人の観客としてはやはり一抹の寂しさを感じずにはいられません。


 「やはりいままで通りとはいかないのかな・・・」

 「透明とは言え、シート越しに観る芝居っていったい・・・」


 ところが、そんな僕の不安をまったくの杞憂に変えてくれる60分がそこには待っていました!

 

【あらすじ】(公演チラシより引用)

 深い深い森の中。帽子屋は今日もお茶会の準備をしています。招かれたのは、不思議の国の住人たち。

 次々とヘンテコなお客さんが現れ、森の中は大騒ぎ。はたして、お茶会は成功するのでしょうか?

 名作戯曲を888企劃ならではの風味でお楽しみください。そのままじゃあ苦いので、ミルクかレモンか、お好みで。

 

 帽子屋が登場する冒頭シーン、不安に満ちた彼のシルエットが透明シートに映ります。


 ほの暗い照明効果と相まって、このシルエットが実に幻想的かつ効果的!「あれ、透明シートも案外いいかも」と思いました。


 そもそも「不条理劇」と呼ばれる別役先生の作品ですから、日常と一線を画すという意味でも透明シートは有効に機能するのではないかと思われます。


 さながらガラスケースの中で展開される異世界の物語といった風情を、この透明シートが作品に与えるのではないかという期待が湧いてきます。


 ところがその一方で、「ならばこれから舞台の上で展開される世界は、観客である僕と永遠に切り離されるものになるのではないか?」という新たな不安がよぎります。それを「取り残される不安」と言ってもいいかもしれません。


 しかしこの不安もまたまったくの杞憂に終わりました。


 有り体に言えば舞台の上で展開された物語が、その物語に生きる俳優たちが、僕らの前に吊り下げれた透明シートをすっかり取り除いてくれたのです。


 さらに有り体に言えば、舞台の上で演じる俳優たちの紡ぐ物語が透明シートの存在そのものをすっかり忘れさせてくれるものだったのです。


 開演前にはその存在が気になった透明シートが、開演直後は装置として有効だと感じた透明シートが、やがてまったく気にならなくなったのです。  透明シートの存在が気にならなくなったのは、僕自身が物語の一部としてそこに没入していったからだと思います。  まずキャラクターのコントラストが鮮明で、そのコントラストが物語にとても心地よいテンポを作ってくれます。  アリスと通訳、チシャ猫と三月兎、市長と公爵夫人。

 これらのキャラクターはそれぞれ二つで一つという趣があるように思います。

 それぞれが対立する様相を呈しながら、でも根っこではつながっている部分がある。たとえば「自己存立」であり「忠節」であり「見栄」であり、そのような共通するテーマが異なる現れ方をするのがそれぞれの組み合わせと言えばよいでしょうか。


 コントラストは全く異なったもの同士には生まれないと思うのです。

 どこかに共通性があるからこそ、その共通性が異なった見え方をするときに、初めて「コントラスト」として成立するのだと思うのです。


 それぞれの組み合わせにおいてその「共通性」と「異なり」がうまくあらわれていたように思います。


 もっとも観ている最中はこんな小賢しいことは考えず、ただただ彼らのチャーミングな言葉と動きに魅了されていたのです。そして大いに笑い、ときどき涙していたのです。


 いい芝居とはそういうものかもしれません。観ている最中は考えるいとまさえなく引き込んでくれるけれども、観終わった後にはしみじみといろんなことを考え、感じさせてくれる。


 別役先生の作品は先述した通り「不条理劇」と言われます。


 しかし「よく分からないトンチンカンな物語」では決してありません。そこにはコミュニケーションの非交通性(伝わらなさ)だったり作為的な善意だったり、僕たちが日常でぶつかる様々な事柄が、僕たちが日常でぶつかるのとは異なる形で描かれています。


 しかも先生の作品には大げさではないけれども、僕たちに対する励ましや優しい眼差しが散りばめられていると思うのです。


 その点からすると、あのジャンケンのシーンは実に良かった

 あのシーンを観ていると涙がボロボロ出てきてしまうのです。コロナ禍に打ちひしがれる経験を経たからなおのことかもしれません。


 戸惑いながらも決してあきらめない。何度「あいこ」になろうとも、いつかたどり着くことを信じて、何度も何度も挑み続ける。「文化」とは詮ずる所そういうものなのかもしれません。心に染み入るとてもいい場面です。


 なんだか取り留めがなくなっていますが、なによりこの作品でもっとも心を打ったのは、作品を創る喜び、作品を届ける喜びがどの俳優からも溢れ出ていたことです。


 その喜びは透明シートなどは軽々と飛び越えて、突き破って、確実に僕たちに伝播してきました。そして俳優たちの喜びは、再び劇場で作品に触れる僕たちの喜びと一体化し、劇場全体を濃密な歓喜で満たしていきます。


 コロナ禍の中でさまざまな演劇の試みがなされています。そこには新しい演劇の形を予感させるものも多くあります。


 しかしマインドセットの更新に良くも悪しくも柔軟性を欠きつつある僕にとって、やはり演劇は生の熱を感じながら楽しみたいものなのです。


 まずはこの時期に、しかも別役先生のこの名作かつ難作に挑んだカンパニー全体に賛辞を。


 そして劇場で作品に触れるという何物にも代えがたい喜びを再び味わわせてくれた彼らに心からの感謝を。

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