松崎 丈
カンゲキ備忘録【演劇】『七慟伽藍 其の二十一』
とき:2019年9月20日(金)
ところ:神奈川公会堂
THE REDFACE PRODUCTION VOL.78 『活読劇 七慟伽藍其の二十一』

以前から気になっていた 『活読劇 七慟伽藍其の二十一』を見るために東急東横線東白楽へ。
もう22年も前、ほんのわずかの間だけ寓居していたのが隣の駅の反町。渋谷を経て井の頭線に乗り毎日大学に通っていた日々を懐かしく思い出しながら電車に揺られる。
観劇前にちょっとした出来事があった。
神奈川公会堂の隣にあるイオン。用を足そうと入ったトイレで隣り合わせた幼い子。
ズボンもパンツも豪快にすっかりとずり下げて用を足していたその子は、用を足し終わった後で水を流そうとするのだが、センサーに一向手が届かず困惑気味。外にいる母御をしきりに呼んでいるが、母御は「お母さんは中に入れないでしょ」とこちらも困惑。
「ほら、パンツとズボンを元に戻して。おじさんが抱っこしてあげるから、手をかざしてごらん」と僕が促すと、その子はぺこりと頭を下げていそいそとパンツとズボンをはき、「お願いします」とばかりにもう一度ぺこり。
幼子を抱きかかえ、「ほら、手をかざしてごらん」というと紅葉のような小さな手がセンサーへと伸びる。無事に水は流れ一安心。
トイレを出ると走り去ろうとする子を手で制して、母子ともども満面の笑みで「ありがとうございました」と三度ぺこり。
こんなわずかなことでも、人に感謝することの大切さを子に伝える若い母親の姿に、お礼を言われた僕の方が恐縮しきり。きっとこの子は真っすぐ成長するんだろうなと思うにつけて、不惑を迎えても未熟な自分に忸怩たるものがあった。
この小さな出来事は、あるいは予兆だったのかもしれない。
人と向き合うとき、作品に向き合うとき、感謝の念や謙虚であることを忘れてしまえば何も得ないままで終わってしまう。そこから学ぶことができない自分の未熟を棚に上げて、偉そうな批評をすることで得るものなど何もない。すべての責を他に帰して、自責的な原因に思いを致さない者には進歩も発展もない。そのようなことを僕に説くために、大きな力が遣わした「おつかわし」があの母子だったのかもしれない。
果たして『活読劇 七慟伽藍其の二十一』を見た後の僕は、自宅へと帰る東横線の道すがら、ひたすら自責的原因を探る運びとなったのだ。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、浅井長政、朝倉義景、武田信玄、そして八百比丘尼。冥界の「七慟伽藍」に集った人々の霊が、自分の生きた生を語り、自分の死後の世を知る。
自責的原因① 既知の事柄からも、なお何かを学ぼうとする志の低さ
『活読劇 七慟伽藍其の二十一』で語られる歴史の側面は、定説、巷説、仮説を含めてほぼ僕にとっては既知の事柄だった。たとえ既知の事柄であっても、そこから何かを感じ取り、何かを学び、何かを想像し、それを自分の創造につなげようという志のないところに、決定的な自責的原因がある。
何度も何度も繰り返し見ている歌舞伎や能からだって、シェイクスピアやチェホフからだって、何かを学び取ろうとするはずなのに、そこに思いが至らぬところが僕の未熟なところなのだ。そこを猛省しないで何かを語るなどは「おこの沙汰」だ。
自責的原因② 能動的コミットメントの欠如
語られる言葉が物理的、生体的に耳に届かなかったとき、その欠落を欠落のままに放置する怠惰や、その欠落を自らの想像力を鼓舞して埋めようとする能動的なコミットメントが欠如していたこと。尊敬する人物や心を許す友と語るとき、愛しい人と睦言を交わすとき、自分の耳に届きかねた言葉や耳のそばをかすめて言った言葉に全く冷淡ではいられないはずだ。明瞭な音とならなかった言葉の欠片を何とか寄せ集め、推測と想像の糊精をもって組み立て形を与えようとするはずだ(そこに生まれかねない邪推と誤解による七転八倒の苦しみを引き受けることとなろうとしても)。そこに意味を探そうとし、意図を読もうとし、あるいは苦しみ、あるいは喜ぶ。そのような主体的な関与を怠るわが身の不精を慚愧の念とともに責めなばならない。
自責的原因③ 喜びを前提とする傲慢
一切皆苦の仏説を表面的には真と奉じておきながら、我が内なる闡提が喜楽は外から与えられて当然と思い続けている傲慢ぶり。喜びは座して与えられるような生半可なものではないと理性では承知しているつもりでも、朝目覚めたときにそのとき一瞬の生を満面の笑みで喜ぶことのない至らぬ頑魯の機。善導の御釈を敢えて「外に賢善精進の相を現ずるなかれ、内に虚仮を懐けばなり」と読み替えられた祖師親鸞の真意をたずねぬまま、表面的な言葉のみを免罪符とし、自らの懈怠にあぐらをかく貧しき性根。そのような者がどうして喜悦の一瞬が向こうから歩み寄ってくるのを望むというのか。
自責的原因④ 誠を言葉で覆い、真から逃げようとする狡知
小賢しい猿知恵をもってして、さかしらな言葉をひねり出し、誠心に単語の化粧を施し、真心を文節の奥底に隠匿しながらも、パンクチュエーションの隙間からそれを覗かせようとする蛇蠍のような奸智。手を拍つこともなく、逃げるようにその場をあとにすることが行間だと自分に言い聞かせる邪知。それらのすべてが自らを矮小化するだけだと頭では分かっていながらも、思うさまにならない染み付いた業。
東横線に揺られながら東京へと戻る道々、上述のような取り留めもないことを想いながら、ようやくにして気付いたのは僕自身が囚われたる小さな魂と生きる冥界の衆生だということだ。そして冥界の衆生がそこを離れようとすれば、須らく先達がいる。たとえばダンテを導いたベアリーチェのように。
この日、僕にとってのベアトリーチェは、あの母子だったと思えてならない。子の手を引き留め、子とともに「ありがとう」を言う母なくしては、そしてあの子の小さな「ぺこり」を見ずしては、僕は自らの至らなさを顧みぬまま、多くを蔑み、多くを呪う、救いようのない餓鬼道の衆生に堕すほかはなかった。
あの母子との出会いは、表面的には全くの偶然であったのだが、ならばこそ一層この身の幸せを念じずにはいられない。求めることなく与えられるベアトリーチェとの出会いなど、そうそう転がっているものではないからだ。
冥に入る 白楽の堂に 伯楽の いまさず天の 扉は閉じにけり
冥に入る 白楽の地に 伯楽の おはして我を 導(ひ)きたまひけり