松崎 丈
カンゲキ備忘録【演劇】『ト音』
更新日:2020年6月25日
とき:2019年3月29日(金)
ところ:赤坂RED/THEATER
劇団5454 第13回公演 『ト音』

文章を通じて感動を共有することは本当に難しい。
小説も絵画も音楽も、そしてもちろん演劇も、素晴らしい作品であればあるほど、それを言語化しようとした瞬間から行間を零れ落ちてゆく魅力を備えているものだ。
単語と単語、文節と文節の間をすり抜けていく作品の力を掬い取ろうとすればするほど、募っていくのは自分の言葉の頼りなさ、不甲斐なさなのだ。
それでも、自分の筆の拙さに歯噛みしながらなお、どうしても語りたくなる、語らずにはおられない作品との出会いというものがある。
その出会いを僥倖と言わずして何と言おうか。
魂のあくがるほどの良作との巡り合わせにおよそ値しない僕のような人間が、この作品との縁を「必然」と呼ぶのは傲慢でしかない。いかに鉄面皮な僕であろうとも、それが分かるほどの謙虚さの欠片は心の中にとどめているのだ。
ならばこの作品を観劇できた幸運を、僕は何に感謝すれば良い?神か?仏か?はかり難い宇宙の意思か?ともかく弥生の末の赤坂の街には、この作品とのランデヴーを心底から愛おしむ僕の喜びが溢れていたに違いないし、一緒に観劇した7人にも、僕の歓喜が伝播していたはずなのだ。
ここに書き留めておこう。そして僕の心にずって留めておこう。いつまでも、いつまでも、僕を支えてくれるであろう『ト音』とのめぐり逢いを。
幕開きの牽引力
大学時代、友人と一緒にオペラを見たときのこと。開演を間近に控え、客席の明かりが徐々に落ちていく中で彼女がそっと呟いたことがある。
「私はこの時間が一番好き。ゆっくりと溶けていく明かりの中で、これから始まる祝祭を待っているこの時間が…」
詩と和歌を愛し、不惑を迎えた今でもウルトラロマンチストな彼女らしい言葉だった。若かった僕はそれに反駁し、東京文化会館からの帰途、山手線の中では周囲の迷惑もよそに口角泡を飛ばす大舌戦を演じたが、今となってはそれも一つの見識だと思う。
しかしそれは、あくまで観る側の独りよがりな高揚だ。そこではクリエイターと観客の交感はまだ始まっていない。
やはり幕は開いてからが勝負だ。幕が開いて初めて、作り手と観客のコミュニケーションが始まる。滑らかでスムーズなコミュニケーションかもしれない、難渋で停滞したコミュニケーションかもしれない。しかし、そこに「交通」が始まるからこそ舞台芸術は面白いのだ。
始まった「交通」が円滑なものであろうが、進み行きに苦痛を覚えるものであろうが、そこに必要なのは牽引力だ。軽やかな歩みにせよ、重い歩みにせよ、着実に観客を先導するコミュニケーションがそこには必要だ。
そのコミュニケーションの始まりを感じ取った観客の心はいやが上にも高ぶる。その高揚感が、観客を日常から脱却させ、劇的空間に誘うのだ。日常に片足を突っ込んだままでは、心底から舞台を楽しむことはできない。
『ト音』は静かに始まる。
観客を一気に劇的世界に引っ張り込むのではなく、まるで一本の細い糸を頼りに、するすると引き込むように誘導する。
「なんだろう?何が始まるのだろう?」
この段階で観客である僕らの頼りは、宣伝やチラシで得ているわずかな情報だけだ。どこに連れていかれるのか、期待と不安がない交ぜになる中で、僕らの気持ちは少しだけ前に傾く。舞台を注視する、聞き耳を立てほんのわずかな音も聞き漏らすまいとする。
その瞬間……軽快に鳴り響く音楽、うねりにうねる照明。それはまさしく僕らを一気に劇的世界に引きずり込むファンファーレなのだ。そして始まる秋生と藤による人物紹介の中で、ややもすれば不気味に感じられていた舞台装置が、登場人物を見事にまとめ上げる「つなぎ」となって、僕らを体ごと、すっかり日常から引きずり出してしまうのだ。
交錯するキャストの動きの俊敏さには「きっと何度も何度も練習したんだろうなあ」というもっともらしい感心が介在することも許さぬほどのダイナミズムが溢れている。
「これだ!これを待っていたのだ!僕らはこうやって、日常の殻から引き抜いてほしいがゆえに劇場に足を運ぶのだ!」
「これだろ?これを待っていたのだろ?任せておけ、俺たちが君の心の埃を、これからすっかり洗い流してみせるよ!」
意識するとせぬとに関わらず、そこには作り手と僕らの紛れもない心の交感が確かな手触りとして存在した。そしてその瞬間に「ああ、僕はこれから彼らが紡ぎだす世界の、あまりにも無力で、あまりにも心地よい虜になってしまうのだ」という嬉し過ぎる予感がふつふつと沸き立って来るのだった。
演劇の、なかんずく良作と呼ぶべき演劇の持つこの牽引力が、開演早々いかんなく発揮されていた『ト音』。この始まりに触れただけで、僕の心にひたひたと「しあわせ」の四文字が歩み寄ってきたのだった。
違和感の仕掛け
この物語が教師たちの嘘を暴き、それをもって校内新聞の読者を増やそうという新聞部の二人のたくらみと挫折を描くだけのものならば、単なる青春譚に終始するだろう。
そのような物語は、主人公と同年代の人たちにはそれなりの感動を与え、その年代を過ぎた人たちにはほろ苦い青春を回顧させる程度の効果を持つだろう。
しかし言うまでもなく『ト音』はその程度の物語ではない。
『ト音』はそんな程度の物語の領域を軽々と、あまりにも軽々と飛び越えていく。
物語の格の大きさをラストで証明する作品はあまたあるが、『ト音』はラストに向かう途上で、しかもかなり早い段階から、物語の格の大きさを自ら語り始める。その語りを僕らに気付かせるのは、「違和感」なのだ。
その違和感を提示するのは脚本であり役者の演技だ。
たとえば呼びかけ。そこに二人の人間がいるのに、呼びかけられるのは一人の名前のみであるということ。秋生と藤が並んでいるところで、呼ばれるのは秋生の名前だけ。普通は二人の人間がいれば二人ともの名を呼ぶはずだ。その小さな違和感が、僕らの顕在意識または潜在意識にわずかな引っ掛かりを作る。
重要なのはその違和感が「小さな」違和感であることだ。事々しい違和感は、僕らをせっかく抜け出した日常に後戻りさせる。僕らがしかとは気づかぬほどの違和感であるからこそ、効果は絶大なのだ。
そしてその良い意味での「効果の罠」に、僕らを巧妙に引っ掛ける仕事は、役者に託されている。
この意味で白眉と言わざるを得ないのは村尾さんが演じた坂内であったろう。秋生と藤が坂内を取材で訪ねるシーンで、一途に秋生の名前を呼ぶ演技にはひたすら目を見張った。
また真辺さんが演じた千葉は、秋生と藤の二人の名を同時に呼びつつも、その名前を二人が共有しないように、一人ずつに確実にぶつけるという高度な演技を見せている。千葉という役はよく言えばイノセント、悪く言えば単細胞だが、単細胞を演じる役者が単細胞であった場合、目を覆いたくなるような悲劇が生じる。単細胞を演じる役者にほど、綿密な計算を成し遂げる知恵が必要だということを示す良い例が真辺さんだ。
あるいは視線の違和感。二人の人間がいるはずなのに、配分されることなく一人にのみ向けられる視線に、やはり違和感を感じた。その違和感が「もしかして…」という僕らの予感のきっかけとなる。「不在」という言葉が僕らの脳裏をよぎり始める。
その予感の先にある悲しい結末を避けたいという僕らの願いを見透かしたかのように、また何事もないように物語が進んでいく。その間の妙もさることながら、一瞬そのような予感を抱かせることが、僕らをこの作品に能動的にコミットさせていく、これまた巧妙な仕掛けなのだ。
小さな違和感の積み重ねが、やがて僕らがたどり着く結末に大きな説得力を持たせる。その説得力を持たせるためには、優れた脚本と優れた演技の幸福な結婚が不可欠なのだ。『ト音』においてその結婚がつつがなく行われていたことは、作り手の幸せである以上に、観客である僕らの幸せと言わざるを得ない。
ミスリードの作法
物語は観客をミスリードしようと企む。その企みのない作品には嫌味もないが面白味もない。かと言ってミスリードは無法地帯ではない。やりたい放題では「それはないだろ!」と観客の怒りを買うだろう。
その一方、上質なミスリードが観客に与える満足感はこの上もないものだ。「あちゃー、やられちゃったなあ」という感覚は、恋焦がれる人から与えられるバースデイサプライズよろしく、喜びに満ち溢れたものなのだ。
「秋生君は本当に藤君のことが好きなんだね」
榊木並さんが演じた江角の台詞だ。冒頭で言われるこの台詞、これほど上質なミスリードがあろうか。この一言には実に色んな解釈が可能ではないか。僕らは勝手にいろいろ解釈する。そしてその解釈によって良い意味での自縄自縛に陥っているとは気づきもしない。
「秋生君と藤君は親友なんだなあ」
「藤君、転校した?」
「まさか、藤君、死んじゃった?」
「もしかして秋生君、ゲイ?」
先ほどの違和感と同じで、ミスリードは僕らを劇世界の中により深くよりアクティヴに関与させてくれる。そして勝手にシンパシーを覚え、そのシンパシーの中で、僕らも秋生君と一緒に生きていかせてくれる。
大事なのはミスリードに無理がないということだ。ミスリードされていた僕たちが、一応の答えとされる結末に到達したとき、ミスリードの裏にあった真実に正面から向き合える正当性がなければならない。
そして再び、繰り出されたミスリードを正当性のあるものに転化できるのは役者の力に他ならない。ラストに至った時に、僕らの耳に何度も何度もこだまするのは、冒頭の江角の一言「秋生君は本当に藤君のことが好きなんだね」なのだ。
当然その一言は文字ではなく音としてよみがえる。その音はあの江角の、ちょっと蓮っ葉な中にこの上もない優しさと柔らかさを備えた声色に包まれているのだ。冒頭のあの台詞が、あの間、あの声で言われたからこそ、この物語が成り立っていたことを、僕らはすでにどうしようもない懐かしさで振り返ることになるのだ。
「人(にん)」
「人に合う」ことの大切さを教えて下さったのは三代目・桂米朝師匠だ。一人で何人もの登場人物を演じる落語という舞台芸術には「人」が欠かせない。「人」に合わない噺をしても、観客を米朝師匠の言う催眠術の世界に引き込むことはできない。
しかし持って生まれた「人」にのみ合う噺をしている落語家には予定調和の退屈さしかない。問題は自分の「人」をいかに広げ、芸の幅をいかに広げるかだ。
それは演劇においても同じことだ。コミカルな演技を身上とする役者がコミカルな芝居をすれば、それなりに面白くはあろうが、それで終わりだ。観客の心を打ち震えさせるような魅力が横溢することはないだろう。
『ト音』の俳優陣に割り当てられた役はいかにも「人」に合っていた。「この人はこの役にピッタリ!」と思わせる説得力があった。
しかしその説得力は自動的には生まれないのだ。おそらくみんな、今までに色んな役を演じて来られたのだろう。そしてそれぞれがそれぞれの演技の幅を広げようと、日々苦闘されていることだろう。その苦闘が結実した「人」があるからこそ、今回の芝居にも説得力が出るのだ。
その努力をこれ見よがしに見せつけるのは役者の本意ではないはずだ。努力を見透かされることほど不名誉なことはないだろう。僕は『ト音』のキャストの誰にも、明らかな努力の影を見たわけではない。ただ一般論として、あれほどの演技をできる人たちは、それだけの努力をされているはずだという推論をしているに過ぎない。もっともその推論は限りなく確信の域に近いものではあるが。
すべての役者が素晴らしかったのだが、「人に合う」という意味で僕の心に深く刻み込まれたのは板橋さんが演じた秋生と高野さんが演じた五味だ。
今後、どの劇団のどの役者がこの作品を演じるとしても、板橋さんの秋生を超える秋生はいないだろうと断言できる。あんなにもたおやかでしなやかな秋生を演じられる役者が他にいようとは考えられない。繊細でナイーヴで、でもギリギリのところで自分の芯を持ち続けている秋生。誰の心の中にもいるはずの秋生をあれほどの結晶度で現出して見せることが誰にできるというのだ。
アフタートークで垣間見られた板橋さんの明るいキャラクターと秋生の乖離が、かえってこの秋生は彼にしかできないのだという思いを強くさせた。彼はきっと彼本来の「人」の中に、秋生の「人」に通じるものを探り、悩み、苦しんだはずだ。その苦闘の軌跡を微塵も見せない演技の潔さに、僕らの心は激しく揺り動かされるのだ。
高野さんの五味には一つの役を磨き上げる職人気質を感じずにはいられなかった。それはあの引きつる笑顔に、僕らは人間のいかんともしがたい可愛さを感じる。そして屋上でくゆらせる煙草の煙の中に、底知れぬ人間の優しさを感じる。役者の本領は細やかな仕草にこそ現れるというのが僕の持論だ。煙草に火をともすしぐさ、僕はあんなに武骨で、やるせなさと慈しみにあふれた手を知らない。あの手を見ただけで、高野アツシオという役者がどれほど真摯に、どれほど誠実に芝居と向き合ってきたかが分かるというものだ。
「人」は他の「人」と調和することもあれば、ぶつかることもある。過度な調和は興ざめで、過度なぶつかりは居心地が悪い。それを絶妙な塩梅で調合するのが演出家だとすれば、それぞれの役をそれぞれの「人」に引き寄せつつ演じる多彩な役者たちを、見事にコーディネイトしている春陽氏の力量には脱帽するほかない。
君は僕の中にいる
観客は自分を登場人物に投影するものだ。自分が生きられない人生を登場人物に託し、役者がその負託に応えることを期待する。自分を託す人物は往々にして、自分と境遇の近い登場人物になるわけだが、優れた戯曲の登場人物はそれぞれが、観客の仮託を引き受ける余地を持っている。
一人の人物に集中的に自分を投影するのも悪くないが、すべての人物の中に自分を託す可能性があれば、作品はより一層厚みを増す。僕は『ト音』の中に登場するすべての人物に、僕の欠片を見出すことができた。僕はこの作品の中に10人の僕を見たのであり、それゆえに10人がすべて愛おしく、その分、赤坂RED/THEATERでの120分は濃密な時間となったのだ。
僕らが僕らを託すためには、舞台の中にいる人物が、本当に真剣に生きていてくれねばならない。中途半端に生きている人物に僕らを委ねるわけにはいかないからだ。『ト音』が良作として僕らの心に印を残すのは、すべての人物が必死に生きているからなのだ。
だからこそ、松永さんが演じた戸井が教室から逃げ出すときに、「この弱虫め!」と蔑むのではなく、「一緒に逃げよう!」と手を引きたくなるのだ。その一方で「次は逃げちゃだめだよ」とそっと励ましたくもなるのだ。
だからこそ、石田さんが演じた安達が「ハジメ君!」と叫ぶときに、僕らも心の中で彼女よりももっと大きな声で「ハジメ君!ハジメ君!!ハジメ君!!!」と叫びつつ、「大丈夫、もっといい男がいるから!」と頷くのだ。
そのような気持ちになるのは、松永さんも石田さんも、この役を真剣に生きているからだ。そうでなければ、彼女たちの演技の中に、僕の縮図を見ることはなかったはずだ。そして彼女たちの演技は、誰の中にもいる戸井を、安達をありありと取り出して見せる説得力に足るものだった。
「あなたの中にも私がいるでしょ?」それを声高に言わずとも、自然な流れの中で感じさせるのが演技の力だ。彼女たちの演技によって、僕の中にいる戸井と安達が切々と僕に語り掛けてきた。「丈の中にいる私たちを忘れないでね。」僕も久しぶりに僕の中の戸井と安達に会えてなんだか安堵した。そして言ってあげることができた。「大丈夫、君たちはちゃんと僕の中にいるよ。そして僕は君たちのこと、ちゃんと大好きだよ」と。
整えられる心
急転直下のどんでん返しが醍醐味という舞台もある。しかし個人的にはラストに向けて、ちゃんと心を整えていたいのだ。歳のせいもあるかもしれないが、あまりに急激な幕引きは心臓に悪い。それ以上に、なにがしかの心の整備が、来るべき結末をしっかりと受け止めることのできるものにしてくれる。
『ト音』のラストに向けて心を整える上で、重要な役割を果たしているのは関さんの演じている古谷だと思う。そこにはアンバランスの妙もある。素足に革靴、裾丈の短いパンツ。自分ではオシャレを演出できず、江角に言われるがままのオシャレをオシャレと思う古谷だからこそ、真っすぐな心がより真っすぐに見えるのだ。
先述の「人」の話にも関わるが、この役もこの人ならばこそという安定感を感じる。それにしても関さんという人の演技のグラデーションと来たら、これは一体どういうことだ!継ぎ目のない緩やかな移り変わり、単なる軟派な英語教師かと思っていたら、あれよあれよという間に、柔らかな中に強い芯のある好漢に化けているのだから!
蓋を開けてみれば、この古谷という人の心が整えられていくのと一緒に僕らの心も整えられていたと気づくのだ。そしていかなるラストが訪れようとも、それをしっかりとキャッチする準備がちゃんとできているのだ。
以前ある友人が「人間は子供の成長とともに自分も成長する」と言っていた。子どものいない僕にはピンとこないところもあるのだが、しかし「子供」を「登場人物」と置き換えると、首肯できる。登場人物の成長とともに僕らも育つ。そのためには僕らと同じ目線で育ってくれる登場人物が必要だ。僕らに寄り添ってくれる登場人物と言ってもいいかもしれない。
『ト音』では古谷がその役割を担っていたように思う。そして古谷を演じた関さんの演技が、僕らにそっと寄り添ってくれていたからこそ、僕らはこの物語のラストまで、迷子になることなくたどり着けたのだ。
予告される不安
『ト音』の中で、僕が最後まで心配でならなかったのは及川さんの演じた長谷川だった。及川さんが心配だったのではなく、長谷川という少女が心配だったのだ。
才色兼備の彼女が担う役割は何だったのだろうか?僕は彼女を見ながら梶井基次郎の『桜の樹の下には』を思っていた。
「桜の樹の下には死体が埋まっている。これは信じていいことなんだよ。何故って桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。」
美しいものは単独では存在しえない。美しさを裏打ちするのは、どうしようもない醜さなのだ。世の中は一元論では語られない。二項対立が世の常だとしたら、あれほどの才媛・長谷川は、才媛であるがゆえに大きな闇と今後向き合わねばならないだろう。
小さな都立高校では俊才の呼び声高くとも、世の中に出ればもっともっと英俊はいる。そういう存在に出会った時に、彼女はいかに自分の居場所を見つけるのか?直面するであろうアイデンティティ・クライシスをいかに克服するのか?
その不安をいやが上にも増幅させるのは、及川さんのあの真っすぐで、天真爛漫な演技なのだ。と同時に、その不安を癒すのもまた、彼女のキレのある演技であったのだが。
手前勝手な不安を抱きながら、僕は長谷川にこそひときわ大きなエールを送りたい気持ちでいっぱいになった。そして及川さんの演じたあの長谷川なら、きっとこれからぶつかる大きな壁を乗り越えられるとも確信したのだ。
その意味で長谷川は、秋生と並んで僕らがこの先を託す大きな希望の星と言えるだろう。何か壁にぶつかったときにきっと僕は思うのだ。「大丈夫、僕の中にも長谷川はいる。その長谷川は、きっとこの困難を飛び越えていける」と。
物語は終わらない
物語は劇場をあとにした時から始まる。劇場の中で展開された物語の続きを引き受けるのは、他ならぬ僕たち自身なのだから。
優れた観劇体験をした後、劇場を一歩出た後に広がっている日常は、幕が開いたあとで僕らが引きずり出された日常とはきっと異なるはずだ。まったく新しい日常ではない、しかしその一部は確実に改変されている。
『ト音』を見る前の僕と、『ト音』を見た後の僕が同じわけがない。だっていまや僕の側には前を向いて歩き始めた9人の仲間と、遠くからいつも見守ってくれている藤がいるのだから。
藤は完全に秋生から去っていくだろうか?去っていかなければならないのだろうか?
僕は藤は秋生から去っていくことはないのだろうと思う。秋生が弱いからではない。藤が優しいからなのだ。屋上のフェンス越し、あの緩やかな藤の歩み。噛みしめるように、一歩ずつ一歩ずつ。秋生に向けられた眼差しに溢れている慈愛。
秋生に対して激高した藤の言葉の端々には、千尋の谷に子を突き落とす獅子の厳しい愛情が感じられた。藤の頬を伝った涙が、その何よりの証左だ。そんな愛情の化身がどうして秋生の元から消え去ることができるだろうか。
僕らにそう思わせるだけの藤を、小黒君は誠実に、真剣に演じていた。
自立するということは一人になるということではない。見守ってくれる誰かの視線を常に感じながら、その温かさに包まれながら、それでも自分の足で大地を踏みしめるということだ。
僕は『ト音』を見て、藤が自分の中にいてもいいのだと、自分に限りなく厳しくて限りなく優しい藤が自分の中にいても良いのだと思った。そして目下、その藤を探している。僕の藤と出会いたいと思っている。
そしてその出会いがあるまでは、この物語は終わらない。さらに出会った後に、新たな物語が始まるのだ。
刻印とリフレイン、そして僕のテーマ
1人の優れた劇作家・演出家と10人の魅力的な俳優、その背後にいる多くのスタッフが僕らに贈ってくれた劇的経験。優れた経験はいつまでも心に刻まれる。いや魂に刻印される。
その刻印は時間を経ても消えてゆくことはない。それどころか人生の折々に甦り、リフレインする。そのたびに僕らはもう一度『ト音』を生きるのだ。そしてそのたびに新たなエネルギーをもらうのだ。得難い経験をした幸福と喜びに満身を浸しながら。
良作は僕らが普段抱えているテーマを刺激する。僕ら自身のテーマとのつながりの中で、相違の中で、対立の中で。
僕が日ごろから考え、向き合っている「居場所」というテーマは『ト音』から大きな刺激を受けて、さらに大きく育ちつつある。
そのテーマとさらに真剣に相対し、格闘していくことが、そして何らかの形で結実させることが、『ト音』という素晴らしい作品との出会いをくれたすべての人々に対する恩返しになるはずだ。
そう信じて今日一日を、感謝しつつ生き抜くことにしよう。