松崎 丈
カンゲキ備忘録【演劇】『コールド・ベイビーズ』
更新日:2020年6月25日
2020年2月7日(金)
株式会社GEMS制作
『コールド・ベイビーズ.』
中目黒キンケロ・シアター

追いたくなる、追わねばならぬ作家がいる。
若き日は大江健三郎を追った。
大江に導かれるままにドストエフスキーを追い、ウィリアム・ブレイクを追い、フラナリー・オコナーを追った。
大江の影響を離れてのちは三島由紀夫を追い、いまなお追い続けている。
2019年春、『ト音』とのまことに幸福な出会いののちは、時間の許す限り春陽漁介氏を追っている。
氏はここ数年のうちに出会った中で、追いたくなる、追わねばならぬと思わせてくれる作家の一人だ。
追う者の身勝手な恐怖は、追いたくなる、追わねばならぬという思いへの裏切りだ。
頼まれたわけでもなく勝手に追っているのだから、「裏切り」もなにもあろうはずはないが、その「裏切り」への恐怖をまさしく鮮やかに「裏切られる」ことの快さは、僕の稚拙な筆による描写など及びもしない爽やかさに溢れている。
『コールド・ベイビーズ』に触れて、氏を追いたくなる、追わねばならぬという僕の思いは、なおもなおも募っている。まずはあらすじを公式サイトから引用する。
【あらすじ】
昨今の少子化問題の深刻化により、日本政府は秘密裏に体外受精の研究機関に多額の予算を割いている。
その結果、研究所は人工子宮の開発に成功。
冷凍保存されていた精子と卵子は交配され、人工子宮によって新時代の子供たちが次々に産声を上げた。
2020年末。日本政府はその事実を発表。
当然、大きな批判も起こったが、反面に面白半分で賛同する者も多かった。
母体を必要としない彼らは、冷凍保存されていた赤ちゃんというところから、「コールドベイビー」と呼ばれた。
2021年現在、コールドベイビーは、約100名誕生している。
彼らは養子として家族を持つ者もいたが、政府管轄の施設によって生活していく者も多かった。
舞台は、2040年。コールドベイビーも一つの選択肢をして受け入れられている世の中。
コールドベイビーの第一世代である者たちは成人を迎えた。
問題なく社会で生活する一方で、家庭で育った者と施設で育った者の感覚には大きな隔たりがある。
愛とは。家族とは。子どもとは。人とは。誰も知るはずのない愛の形を彼らは探す。
2019年12月の劇団5454公演、『カタロゴス~「青」についての短編集』からの連作として『コールド・ベイビーズ』を観る者と、『コールド・ベイビーズ』を単体として観る者への、それぞれの配慮と企みがある点に、まず春陽氏の作家としての誠実を感じる。
「誠実」と言って当たらなければ、それは作家の持つ「愛」だ。
観る者を置き去りにしない、観る者とともに在ろうとする作家の「愛」に打たれない者がいようか。
しかし一方でその「愛」を、大上段に振りかざさないのが氏の作品の魅力なのだ。
自省を込めて言うのだが、押し付けられる愛は痛い。
愛はそっとそばにいてくれればよい。
そのような愛にこそ、やはり誠を感じるのだ。
氏の作品を観るたびに思うのだが、氏は観る者の能動的なコミットを誘発するのが実に巧みだ。
ぐいぐいと引きずるようにコミットを求めるのではなく、知らず知らずのうちに誘われている心地よさ。
それはYES/NOクイズであり、バドミントンであり、ポジションゲームであり。
それらが巧みに構築された仕掛けであることは分かりつつも、素直に前かがみに身を乗り出してしまうところは、巧みすぎずに巧まれているからだろう。
思い出されるのは2019年12月の劇団5454公演のアフタートークで春陽氏が語られた言葉だ。
「嘘をつきたくはない」
YES/NOクイズもポジションゲームも、やりようによっては観る者をただ引っかけるトラップになりうる。
己が才気をひけらかすために(そんな作家はいないだろうが)巧みに巧んだ仕掛けは観る者を感心はさせても感動させない。
しかしまったく巧みのない仕掛けはハラハラがなく乗せられない。
春陽氏の繰り出す仕掛けにいつも心地よく乗せられるのは、まさしくそこに「嘘がない」からなのだろう。それもまた作家の「愛」の証なのだ。
2019年12月の劇団5454公演で告知された『コールド・ベイビーズ』の触れ込みに「亜青以外にもコールドベイビーズは存在した」とあった(と記憶している)。
『カタロゴス~「青」についての短編集~』からの連作として『コールド・ベイビーズ』を観る者は少なからず、C組の全員がコールド・ベイビーズであろうという予断を持って、冒頭からこの作品と向き合ずはずだ。
そこにこそ、『カタロゴス~「青」についての短編集』を経由して『コールド・ベイビーズ』と触れ合う者の最大のコミットがある。
それは文脈の大きなコミットだ。
僕自身、C組の4人すべてがコールド・ベイビーズとして落ち着くのだろうという予断を持ってこの作品を観始めた。
その予断を持った上で4人それぞれの感情の動きを追っていくのは非常に興味深い体験であったが、その一方でその予断は何度も揺らぐのでもあった。
それは僕自身のどこかに、「普通」(という言葉をやや安易に使うのだが)の母体から生まれたのでないコールド・ベイビーズたちが、そのような感情の動きを、そのような表情を見せることはあるまいという、僕自身の狭量な色眼鏡があったからに他ならないことに気付き、観劇後、自分自身を暗澹たる気持ちで振り返ることになるのでもあるのだが。
C組の4人の感情や表情、行動を見つめながら、「やはりC組にはコールド・ベイビーは1人しかいないのか、あるいは2人か」などと、さまざまな推測をしつつ、舞台上に設えられた4つの窓から彼らの行動を観察する施設の職員と自分が、ある部分で同化しているという経験でもあり、これもまた観る者としても僕がこの作品にコミットしていく道程でもあったのだ。
春陽氏は観る者のコミットを誘うことで、舞台の上の物語と観る者の垣根をそっと取り払ってしまう。
それもまた氏の作品の魅力の一つであり、氏の作品に観る者として参加する醍醐味の一つなのだ。
直接のその名が出て来なかった(と思う)ので断言はできないながら、大木は亜青なのだろう。
紫亜の名前が出て来た(とこれも頼りない記憶だが)ことと、朱井の言葉と思われるものが引用されていた(とこちらも頼りない記憶)ことから、おそらく間違いないと僕は思っているのだが、この推測が正しいとすれば、この物語は誠に深い奥行きを持っていることになる。
そして佳境へと至る大木の言葉やしぐさを、僕は大木=亜青の前提のもとに観ていたのだが、その視点に立つときの渡辺コウジさんの演技は、『カタロゴス~「青」についての短編集』の山脇さんの亜青と、まことに見事につながっている。
一つの役が二人の役者によって受け継がれる魂のリレーが、これほど涙を誘うという事実。
僕の心は一足飛びに赤坂RED/THEATERへとワープして、そこで朱井が亜青に託した思いが、震えるような愛おしさで甦るのだった。
追いたくなる、追わねばならぬ作家が同時代にいることへの幸せを思いつつ、帰る道すがらの川沿いの桜木に、満開の花を見るような気持がした。