• 松崎 丈

カンゲキ備忘録【演劇】『カタロゴス~「青」についての短編集~』

とき:2019年12月20日(金)

ところ:赤坂RDE/THEATER

劇団5454 第14回公演『カタロゴス~「青」についての短編集』

 2019年3月末、赤坂RED/THEATERでの『ト音』との出会いは、ここ数年の僕の観劇履歴の中でひとつの「事件」と呼ぶべき出来事であった。


 あれから8ヵ月弱、再びこの劇場を訪れる僕の心に去来する複雑な感情を自分ながらに形容しがたいまま、狂奔のラッシュアワーの残り香を漂わせる銀座線車両の片隅で、僕は小さくうずくまっていた。


 心の伴侶とも呼ぶべき良品との出会いを提供してくれたカンパニーの、その出会いが提供されたまさに同じ場所で行われる別の公演を観るために足を運ぶ時の、あの独特の感情を克明に説明する言葉の力を僕は持たない。


 期待と恐怖がない交ぜになり、ある瞬間には期待が優勢を占め、ある瞬間には恐怖が凌駕するシーソーゲーム。

 心の準備が整わぬまま劇場へと至り座席を占める。ともに観劇する人たちと交わす他愛のない会話に、表面は取り繕っていても心をこめる余地はない。僕の心のシーソーゲームは相変わらず続いている。いや、それどころかいよいよ激しさを増している。そのシーソーゲームに新たな参戦者が現れる。


 「祈り」だ。


 いまからこの空間で僕を満たすのが、あのときと種類は違っても良い、質が違っても良い、しかし呼び名としては「幸福」という他ない、あのときと同じ現象であってほしいという「祈り」。


 昔、ある神学者が僕に言ったことがある。「祈りとはその行為自体が目的で、そこにリスポンスを求める種類のものではない」と。しかし、「見返り」と言えばいかにも俗だが、応える声のない祈りほど苦しいものがあるだろうか。いや、たとえ応えはなくとも、少なくともその祈りを共有する何かがなければ、僕たちはいかに自らの正気を保つことができるだろうか。

 自分ながら訳の分からない思いに雁字搦めになりかけたその矢先、舞台に一人の青年が現れる。


 その佇まい、その静寂、その淋しさ、その切なさ。


 彼は僕に予感を与えてくれる。僕の祈りはたぶん今日も届くのだろうという予感。

 彼の姿を眺める時間と比例して、徐々に確かになる予感が僕の満身から溢れそうになった時、物語の幕が静かに上がった。

 3つの物語とそれをつなぐ1つの物語が織りなすこの作品は動と静の按分に優れている。

 大きな流れとしては静→動→静→動でありながら、それぞれの静の中に動があり、それぞれの動の中に静がある。


 それはくしくもアフタートークで春陽さんが語られた「善意の中の悪意、悪意の中の善意」と符合するようで、アフタートークまでを含めたすべてを観終わった後では、観劇中とはまた違った興味深さを覚えたのだが、もちろん観劇中にはそんな理屈を考えていたわけではない。

 僕としてはただ「感覚」として動静のあり様の中に揺蕩っていただけだ。

 そして個人的にはその「揺蕩い」こそが心地よい。


 僕は小難しい理屈をこねくり回すことを心から愛する種類の人間だが、それは観劇後、気の置けない仲間たちとともに日本酒を湯呑でがばがば飲みながらやりたい営みであって、劇場ではただただ物語に身を任せつつ、ゆらゆらしていたいのだ。


 その「ゆらゆら」を許してくれるのは、やはり脚本であり演技であるのは言うまでもない。


 吊り橋のゆらゆら感を楽しむためには、その吊り橋に確固とした構造があることが前提で、それを欠いてしまっていれば吊り橋の綱は切れ、橋板は四散し、僕らははるか下の渓谷に叩きつけられてしまう。

 森島縁さんは1つ目の物語では妹役(だと思う)、3つ目の物語ではナツコ役(これは間違いなく)を演じていられたが、これはゆらゆらを存分に楽しませてくれるために欠くべからざる要素だった。


 他と比べれば静の役柄の彼女が、良い意味で「常識的」な像を描いていたからこそ、姉カズミとその親友チヒロが突き進んでいく様に、観ているこちらが安心して身をよじらせることができるのだし、ハナの独善的とも捉えられかねないバトミントンの試合への熱意がギリギリのところで許容されるのだ。


 森島さんの演技は静を担っていながら、そのうちに秘められた動を充分伝えるものだった。1つ目の物語では最後の場面、旦那さんとの外食にあんなにウキウキする愛らしいさまは動そのものだし、3つめの物語では親友のハナの想いをしっかりと受け止める心のコアの熱さを感じさせる。彼女の演技は静の中に凝縮された動を見せる。


 そしてあの「普通」という言葉。僕は「普通」という言葉をあんなにキラキラと輝かせながら発することのできる女優を他に知らない。あのわずかなコンプレックスと困惑を包みながら、それでも潔く発せられた「普通」。観る者の心を鋭くえぐるのではなく、しみいるようにひたひたと僕の心の奥に届いた「普通」。僕の心の中にずっと残って反響し続けるであろう「普通」。

 この動と静の感覚はおよそすべての人物にあてはまることだ。


 カズミとチヒロにも、ハナをはじめとするバトミントン部の面々にも、それぞれの動と静があるいは明瞭に、あるいはほの見える。


 短編であればこそ、子細にその動静を取り出して見せることが難しい以上、余計に脚本と役者の力量が、誠実さが問われる。


 一瞬の表情に、わずかな仕草に、その人物の秘める動静をいかに反映させるか。分かりやすすぎては面白くない、分かりづら過ぎては伝わらない。そのジレンマの中でもがき続けるのが役者の定めだとしたら、そしてその定めを見せまいとするのが役者の矜持だとしたら、役者とはなんと業の深い、そしてその分、美しい生き物だろうか。


 しかしその定めと矜持を持たぬ役者の演技には訴求力が感じられない。その定めと矜持を引き受けているからこそ、それが観る者に、たとえ無意識のレベルにせよ、いや無意識のレベルだからこそ伝わるのではないか。


 そうでなければ、どうして四十路を迎えた僕が、三十路女の恋物語に感ずるところを得ようか?バトミントン部の青春譚に心が熱くなろうか?役に向き合い格闘する過程なくして、その役の境涯とは違う境涯を生きる人の心に火を灯すことができようか。僕がカズミの恋の行方に自らの心を焦らし、バトミントン部の面々にも負けぬ気持ちでシャトルを見据えていたのは、役者たちの役との真摯な向き合いがあってこそなのだ。

 2つ目の物語。

 真実とはかくも不気味で、恐ろしくて、しかし希望の灯を決して消さない余地を残すものなのか。


 僕はこの物語の初手から背筋が凍るようであった。

 ケントの言葉すべてに散りばめられた恐ろしいまでの「善意」もさることながら、あの笑顔とさわやかさ!


 そして目だ。その目が多くの善意に裏切られ、すべての善意を疑い、あらゆる善意を捨てた果てにある「善意」を見ている目なのだ。


 そしてそれに必死で抗おうとするリョウタ。それは本能だ。彼は本能で防衛しようとしている。


 理性とその根底にどす黒く横たわる感性によって巧まれた「善意」と、それにあらん限りの力で抵抗しようとする本能の戦いは、世界の盛衰をかけた悪魔と人間の戦いのようでもあった。


 悪魔は人間を裏切らない。そもそも人間との間に信頼の契りを結んでいないのだから。

 人間を裏切るのは結局のところ、人間でしかない。悪魔に魅入られた人間、自分もやがて悪魔の食い物になる人間。それがショウコとうことになろうか。


 「青」についての短編集と名付けられた一連の作品の中で、僕が最も「青」を感じたのがこの作品だった。


 青は多義的な色だ。ほとばしる若き日の情熱を「青春」と呼び、安らかで平らかな状態を「静」と呼ぶ。それは先述の動静につながることだ。澄んだ青は誠に清々しく心洗われるようだが、それが一段濃く群青となれば一気に不安の対象となる。


 そして青は遠目には美しい。空の青も、海の青も、富士山の青だって。しかし近づいてみると限りない恐怖と不快感を与えるのも青だ。


 ダイビングをする僕の実体験だが、沖縄の海は透き通るように青い。遠望すればこれほど心清められるものはない。しかしいざ海に潜れば、その青が冴えれば冴えるほど、吸い込まれて二度と戻れなくなるようなこの上ない恐怖を感じる。


 ケントとはまさにそのような青を体現するような人物に僕には思えた。


 そしてそのケントを演じる窪田さんのあの澄んだ不気味な笑顔!


 恐怖をもって恐怖を演じる役者にはしばしば出会うが、誠実をもって恐怖を演じるのは並や大抵のことではない。約8年ぶりに役者復帰されたとのことだが、演劇ファンにとってはとてもありがたいことだ。


 だまされたリョウタとショウコ。最後にリョウタがショウコの肩に手をかける。観ている僕たちはそこに残された希望の灯を感じるのだ。


 西郷隆盛は征韓論を唱える中で「たとえ日本が焦土となっても良い。焦土の中から新しい日本人が生まれるのだ」と言ったとか。征韓論の是非はさて置き、希望とは案外そういうものかもしれない。すべてが失われて、もう絶望しかなくて、でもそこから本当の希望は生まれるのではないか。


 そうだとしたら、最後にリョウタがショウコの肩に手を置いたその瞬間から、この二人の本当の物語が始まるのではないか。お互いの心の内を腹蔵なくぶつけ合い、お互いを疎み憎み、でも傷を共有した彼らはこれから本当の兄妹になるのではないか。僕にはそう思えてならなかった。


 春陽さんはアフタートークの中で「ケントにも苦しみがあったのかもしれない」と語られた。誠実な人なのだと心から思った。だからこういう重層的な温かみのある作品が書けるのだろう。彼の言葉を聞いて脳裏によみがえったのは、大江健三郎の『小説の方法』の冒頭だった。「言葉を軸にして人間とは何かを考えつつ、そのように考える自分がやはり人間について基本的な信頼の想いを持っていることに気付く」。そして自分の心の目が少し洗われた気持ちになったのだ。


 青。多義的で正体不明で、それでもやはり美しい青。

 2つ目の物語には正しくそのような青のエッセンスが凝縮されていると言ってよい。

 3つの物語をつなぐ亜青の物語。


 僕に幸福な時間との出会いの予感をくれた亜青。

 笑うことは少なくとも、涙することはなくとも、嫉妬や悔しさは感じる亜青。


 そしてその彼に様々な気持ちのありようを伝えようとする紫亜。

 亜青はさまざまな感情を欠いているが、紫亜はどうだろうか。

 おそらく彼女もいろんな感情を欠いているにちがいない。


 それが彼と彼女が「亜」であるゆえんなのだろう。


 「亜」は「亜流」、何かに準じるもの、本物ではありえないもの。

 彼と彼女は人工子宮から生まれたわけだが、では生命体の一器官としての正真正銘の子宮から生まれればそれで「亜」ではない「人間」と言えるだろうか。朱井は「亜」ではないのだろうか?

 前回の『ト音』で僕は高野アツシオという役者のタバコを吸う仕草に魂がえぐられるようなやるせなさと、そのやるせなさゆえの慈愛を感じた。今回の舞台も半ばはこの人を観に行ったと言っても良い。


 果たして今回思ったのは、この人は「真実を語る」に長けた人だということだ。

 この人の語る言葉には真実がある。いや、言葉に真実を込める力がある人なのだ。


 「国民」という言葉の、あの重々しい響き。

 言葉そのものも重いが、その響きが重い。


 コールドベイビーズの管理者として役分と「人間」としての自分とのせめぎあいの中で発せられるあの言葉は本当に重い。


 そしてあの言葉を発す瞬間の朱井は間違いなく「亜人間」だ。

 「人間」であるが故の苦悩の末に「亜人間」として言葉を発することを選ばざるを得なかった意識的な「亜人間」だ。


 しかしその言葉の裏では亜青に必死に何かを伝えようとしている点で「人間」でもある。そうでなければ、亜青のほんの一瞬の笑顔を、あんなに嬉々として喜ぶことができるだろうか。


 ある人から「高野さんは丁寧に役作りをし、細部にこだわる」と聞いたことがある。

 しかし今回の芝居を観て、高野アツシオという役者は丁寧に「人間」をつくろうとする役者なのだと思った。だからまた観たい、もっと観たい、そう思わせてくれる役者なのだ。

 完全に常時「人間」である人間がいようか。

 行きついたのは、僕自身も多分に亜青だということだ。

 完全な「人間」がどんなものだか知らないが、僕はまだまだ「亜」なのだということは分かる。

 そして「亜」からいつかは抜け出したいと心貧しく願っているし、その願いを止めてはならないのだ。

 「亜」から抜け出すにはもっともっと出会いが必要だ。

 優れた本や音楽、美術や演劇との出会い。

 そして何より、もっと多くの「人間」と「亜人間」との出会い。

 赤坂RED/THEATERの客席についたときの僕の「祈り」は叶えられた。

 僕はこの場所でまた、この劇団によって、幸福な時間を与えられたのだ。

 そしてそこから、自分に対する自分なりの大切なメッセージを紡ぎ出すことができたのだ。


 願うことを止めてはならない、祈ることを諦めてはならない。

 この劇団はいまや僕の心の友達だ。

 また会いたい、早く会いたい。僕の魂はいま、それを願い祈っている。

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