松崎 丈
カンゲキ備忘録【演劇】『アイタクテとナリタクテ』
とき:2019年11月1日(金)
ところ:下北沢OFF OFFシアター
劇団フライングステージ第45回公演
『アイタクテとナリタクテ』子どもと大人のフライングステージ

真っすぐであること、誠実であること、向き合うこと、逃げないこと。
決して声高になりすぎず、過度に接近しすぎず。
穏やかにささやくように語りかけ、寄り添うようにそばにいながら、そっと背中を押してくれる。
そんな70分が『アイタクテとナリタクテ』だ。
【あらすじ】
小学校の学芸会
男の子が女の子の役をやりたいと手を上げた 女の子になりたいの? 男の子が好きなの? 王子様に会いたいボクと 友だちと教師と親たちのおはなし 「ゲイの劇団」フライングステージが初めてお送りする 子どもと大人のためのLGBT演劇
まずは脚本の多角的な視点に、控えめに言っても脱帽してしまった。
小学6年生大河、翔、悠生それぞれの視点。
大河の父・大地とそのパートナーの広夢の視点。
教師たちの視点、母親たちの視点。
それぞれがコンパクトでありながらも、充分な説得力と共感力、伝播力を持っている。
何かになりたい自分、
誰かに会いたい自分、
とても大切に思っていながらその大切なものを一歩踏み出して誰かと共有できないでいる自分、
誰かを見守りたい自分、
自分のために誰かに何かを犠牲にさせたい自分。
自分の中のいろんな自分を、物語の登場人物たちが少しずつ肩代わり、生きている。
そんな登場人物たちを巧みに、そしてまさに多角的に生み出す戯作者の筆。
そしてそれら説得力、共感力、伝播力は大上段から振りかざされた、押しつけがましいものではない。
優しいんだ、限りなく優しいんだ。
その優しさときたら、あの70分を思い出しつつ、いまこのブログを書いている僕の両の目が、再び満々たる涙に浸されるほどなのだ。
多角的な視点を持つ物語が、空中分解することなく一つの統一体となるためには、作者・演出家とそれぞれの役者のコンセンサスが不可欠だと思う。
しかもこの物語は、誰でもが簡単に「そうだ、そうだ」と了解できるような平面的なものではない。
LGBTだから簡単に分かるものでもないし、ヘテロセクシュアルだから分からないというものでもない。
ともすればそれぞれの役者がそれぞれの役柄をのめり込んで演じるあまり、どこかまとまりのない作品になってしまう危うさがあるところだが、この作品は見事なまでの統一感を持っている。
先ほどコンセンサスと書いたが、この作品には座組全体のコンセンサスを強く感じる。
それはただ生易しいうなずき合いのようなコンセンサスではない。
座組全体で子細に、真摯に作品を検討し、その背景を語り合い、作品とそれぞれの自分を重ね合う難渋な手続きを経ながら得られたであろうコンセンサス。
それを「誠実」と呼ばすして何と言おうか。
そうなのだ、この作品はまさに誠実なのだ。
その誠実さは一朝一夕にはできない。劇団フライングステージが、なかんずくその中心に起立し続ける関根さんが30年になんなんとする長きにわたりLGBTの諸相と演劇の可能性に向き合う中で醸成されてきたものだと思わずにはいられない。
開演前に作・演出の関根さんの書かれた「ごあいさつ」を拝読した。
「子どもの自分と大人の自分はずっとつながっていました。ただ、途中で途切れているようにかんじるのは、記憶の中に思い出したくない部分があるからなのかもしれません。」
過去の自分と現在、未来の自分とのつながり。
そのつながりに背を向けていては他者との有意義なつながりを望むべくもない。
たとえ自分と自分のつながりの中に、目をそむけたくなる断絶があったとしても。
その意味でこの作品を見た僕は、いまの僕につながってくれている過去の僕を久方ぶりに訪ねてみたくなった。
たとえそのころの自分の考えや感じ方を、手探りでしか見つけることができないとしても。
いまの自分はあの頃の自分が「アイタクテ」と感じうる自分でいるだろうか?
「ナリタクテ」と感じうる自分でいるだろうか?
この作品を見ながら始終僕の頬を伝っていた涙の意味は何だろうか?
誠実に勇敢に作品に向かう作者と演者への憧憬と嫉妬?
まだまだ本気で走れていない自分への忸怩たる思い?
そんな要素が皆無だとは思わないが、もっと大きかったのは「真っすぐであること、誠実であること、向き合うこと、逃げないこと」に向かって行く勇気を分けてくれたこの作品への感謝なのだ。