• 松崎 丈

カンゲキ備忘録【演劇】『ひまわり』

最終更新: 6月25日

とき:2019年6月30日(日)

ところ:Free Masion

the Stag Party Show TOKYO #18『ひまわり』

 the Stag Party Showさんの公演に初めてお邪魔しました。


 ずっと気にはなっていたのですが、遅きに失するとはまさにこのこと。もっともっと前から観ておけば良かったと感じずにはいられない、素敵な75分間を過ごさせていただきました。


 当初はうちの劇団員の勉強の場になればと思っていたのですが、僕自身が多くのことを感じ、学び、改めて演劇の可能性を教えられる作品でした。

 演劇と言えば劇場という概念を軽々と飛び越えてしまう発想力。これは見た人誰しもが感じることでしょう。


 劇場を飛び出すという発想はかなり以前からあるとは言え、それを劇団のアイデンティティにまで高めるということは、勇気のいることではないかと思います。


 演劇的体験は日常からの乖離であると定義するならば、場の持つ意味は計り知れないわけで、その場を劇場に限定することは、あるいは演劇の力を減衰することにつながるかもしれません。


 あえてセットを組まず、そこで起こる物語だけで僕たちの日常を異化させることは、作り手としては一つのチャレンジであるけれども、同時にそれが成功した時の手触りは、またひとしおなのだろうと感じました。

 場を作りこまない以上、そこに展開する物語そのものの力、その力を具現化する役者の力に対する期待値はいやがうえにも高まります。複数の時代を行きつ戻りつしながら、人々の持つ悲しみと苦悩をたおやかになだめていく継春さん。その在りように、「この人にも何か大きな苦しみがあるはずだ」と予感させる物語の運び。


 FreeMaisonという真紅に彩られた空間は、その物語の力を借りつつ僕らを、あるいは軍靴の音がすぐそばに迫っている重苦しい時代へと連れて行き、あるいは衣食満ち足りたゆえにかえって「カラン、コロン」という空虚な響きが心に横溢する現代へと引き戻します。

 「たおやか」と言いました。あの継春さんを形容する言葉として、僕にはこの言葉しか思い浮かばないのです。そのたおやかさが、一見蓮っ葉なようでいて、実は人生の暗部を多く見てきたからこそその境地に至ったであろう女装さんのテンションと絶妙な一対となり、その二人の醸し出す空気が、いかにも不器用なサラリーマンさんをすっぽりと包み込みます。


 そのたおやかさが、気風の良いお調子者のようでありながら、やはりどこかに寂しさを感じさせる遊郭の若衆と、こちらも絶妙な一対となり、武骨でぶっきらぼうな絵描きさんを包摂していくのです。

 「悲しみや苦悩をなだめる」と言いました。僕は人の悲しみや苦悩に解決はないと思っています。しかし一時的にそれをなだめることはできるのではないかと思います。


 悲しみや苦悩が小康状態にあるとき、絶望の果ての中で見つける希望と比べれば小さなものかもしれないけれど、人は一筋の希望の光を見るのではないか。だとしたら、継春さんは本人たちがその希望の小さな欠片を見つけるきっかえを与えるに過ぎない。悲しみを癒し苦悩を解決することによってではなくて、それらを束の間、「なだめる」ことによって。

 物語が佳境に進むにつれて、僕は涙がこぼれるのをいかんともできませんでした。

 それは自分の中にも小さな継春がいて、その継春は自分ながらに苦悩しながらも、僕の希望をつなごうとしている。それがいかに難渋で、重苦しい進み行きのものだとしても、諦めることなく、そう決して諦めることなく。


 その時、僕の耳に再び聞こえたのは、開演前ライヴで歌われた『からたち野道』でした。それは僕の中の継春を励ましたたえるような限りない優しさと、その継春に抗い拒んでいる僕自身に対する嫌悪を込めた堪えきれないような痛みと共に。

 継春との出会いは、確実に僕の一部を変えました。

 その変えられた一部をどのように引き受けは、僕自身の問題なのですが、演劇が持つそのような力を改めて感じさせてくれる、とても素敵な時間との出会いに、ただただ感謝。

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