• 松崎 丈

【鉛頭一割】8月15日と憲法改定

 8月15日の今日は終戦の日。

 8月15日を迎えるたびに僕が考えることが二つあります。

 ひとつはもちろん、先の大戦のことです。

 そしてもうひとつは憲法改定のことです。

 憲法を改定することの是非について、もちろん僕自身の考えはあります。

 しかしそのことはさておいて、僕が問題だと思うのは、憲法改定について国民の当事者意識が刺激されていないということです。


 「憲法改定について国民の意識が低いのは、国民自身の責任だ」と僕は考えません。


 もちろん、すべての国民が自国の最高法規である憲法の内容と、その改定をめぐって行われている議論に自発的な関心を持てば、これほど素晴らしいことはないでしょう。

 しかし、それは現実的ではありません。


 上からものを言うつもりはありませんが、すべての国民に政治的関心、社会的関心を自発的に持てと言ってもそれは無理です。

 ならば政府が、自治体が、マスコミがもっともっと憲法についての議論を国民に紹介すべきだと僕は思うのです。特に自民党は憲法改定を党是として、そして現実的な憲法改定を目指しているのだから、率先して国民の意識を喚起すべきです。


 その押し出しが全く不充分で、国民の憲法に対する意識レベルもいまひとつ上がってきていないように思います。

 たとえば先の参議院選挙。僕がもっとも注視していたのはいわゆる「改憲勢力」と呼ばれる人たちが総議席の3分の2を占めるかどうかでした。ところが、れいわ新選組に話題をさらわれて、その点にはあまり注目が集まらなかったように思います。


 現状、衆議院では「改憲勢力」が3分の2を占めていますから、参議院でも同様の状態になれば、日本国憲法が制定されて以来初めて、憲法改正の発議がされる数字上の条件は整っていたわけです。しかしその点はあまり注目されなかった。とても残念です。


憲法を変えようとすれば最終的には国民投票が必要となります。その際に恐ろしいのは、国民が内容をよく分からないまま、小選挙区制度導入以来、この国の選挙でときどき吹き荒れるいわゆる「風」に乗って、軽率な投票行動に走ることです。それは本当に恐ろしい。

 たとえば憲法改定反対を唱える人たちがいる。その人たちはもちろん自分の声を届けるべく努力すればよい。


 しかしその声を聞いた人たちが、その声をそのまま信じるのではなくて、立ち止まって自分で考えることをしなければならない。


 そして改憲論者も護憲論者も、自分たちの主張を展開した後で国民に必ず「最後は自分で考えてください」と付言すべきだ。それがフェアな民主主義だと僕は思うのです。

 思い出されるのは安保闘争の時代(僕は生まれていませんけれど)、安保条約に反対運動を展開する学生たちの多くが安保条約案さえ読んでいなかったというのです。


 昨今の憲法改定論議にしても、たとえば自民党の憲法改正草案を読んでいない護憲派や護憲派シンパの人も結構いるんではないかと心配してしまいます。


 提示される「分かりやすい」データや「分かりやすい」言葉にそのまま従ってしまう、それは非常に危険なことだと僕は思うのです。 

 消費税の問題にしてもそう。

 ただ単に増税反対というのはたやすい、その言葉は耳に心地いい。


 しかし、そういう言葉はいったん警戒してみるべきです。

 そしてその言葉を受け取った人は、ちょっと自分で調べてみればいい。

 消費税収はどれくらいで、そのうちいくらがどういう用途に使われていて。


 その上で、その統計が信じるに足るものかも含めて、本当に消費税は要らないのかどうか、自分なりに判断すればいい。


 それをしないで発言者の言葉に従うのは妄信と言わざるを得ない。

 そして「そのような判断をするのは自分ですよ」と言わない発言者は相当アンフェアだと僕は思うのです。

 先日、こんなツイートがありました。

 いかにも扇動的で不正確で、僕は怒りすら覚えました。


 これは数字の断片を引用して、読む人の印象を操作している。


 ではそれぞれの国の国会議員の総数は?国民一人当たりの国会議員の数は?国会議員の職務内容は?兼業規定は?


 そういうことに一切触れずに、この数だけを提示するのは非常にアンフェアです。

 話がだいぶ脇に逸れましたが。

 つまり何にせよ、最後は自分の判断をちゃんとしなければならない。


 そしてその判断の材料を提供し、そして何より「判断するのはみなさんです」と啓発する努力を、こと憲法に関してはもっともっと政府、自治体、マスコミに行ってほしいと思うのです。

 この自己判断を怠れば、ただ風に吹かれ、悪しきポピュリストたちの扇動にあって、気付いてみれば「こんなはずじゃなかった」という思いだけが残る、そんな日を迎えてしまう危険が多分にあるのです。


 1945年8月15日、いったいどれほどの国民が「こんなはずじゃなかった」と思ったことか。彼らは自己判断の機会すら奪われていたけれども、現代を生きる僕たちには、あの当時の人々に比べれば自己判断できる余地が大いに残っているのです。

 憲法とは国家権力を制約して、国民の権利と自由を担保するためのものであるという基本に立ち返るならば、僕たちがよって立つべき最後の砦は憲法以外にないわけです。


 その憲法の改定がかつてないほどの現実味を帯びているいま、なかんずく終戦の日に、戦後日本の平和を守り続けてきたと言われる憲法に思いをいたしながら、僕はそんなことを考えています。

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