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  • 執筆者の写真松崎 丈

【鉛頭一割】8月6日に思うこと

 今日8月6日、愛してやまぬ我が故郷・広島は、74回目の原爆忌を迎える。


 灼熱の太陽が照らす広島は、一発の爆弾によって大焦熱に焼かれる地獄と化した。


 いまもなお、原爆が撒き散らした放射能に起因する数々の病魔と闘っている人々がいることを絶対に忘れてはならない。

 僕の母方の祖父も被爆者であった。


 爆心地から2kmほどの横川付近で祖父が電車に乗っていた時、相生橋の上空600mほどでリトルボーイは炸裂した。


 その時のことを生前、一度だけ祖父は語ってくれた。

 「ものすげえ風が吹いてのお。じいちゃんは4両の電車の一番先頭に乗っとったんじゃが、気が付いたときには一番後ろの車両で倒れとったんよ。どうも背中が痛いのお思うてのお、見たらガラスの破片がえっと(たくさん)たっとんだんじゃ(刺さっていたんだ)」

 もともと朴訥とした話し方をする祖父だったが、その祖父がいつにもましてボソボソと、備後弁(広島県東部の方言)で語った言葉は、いまも僕の耳の底に、祖父の声音とともに確かに残っている。


 爆心地にかなり近いところで被爆した祖父が、被爆に起因する症状を発することなく76歳まで元気に暮らしたことは奇跡と言うほかない。しかし、祖父が晩年になるまで被爆体験を語ることがなかったのは、やはりあの地獄の体験が、祖父の生き方に確実に影をもたらし、その記憶を祖父が自ら封じ込めることを、無意識的にもせよ選択していたのではないかと思わずにはいられない。


 そしてその祖父が晩年になってその経験を語ったのは、もしかしたらどこかで自らの死を予見するところがあり(晩年の祖父は軽い脳梗塞で倒れたことがあった)、自らの経験を孫である僕につないでおこうと思ったのではないかと察せられる部分もある。

 父方の祖母は爆心地からはるかに遠い中国山地の山中にいた。

 その祖母が語ったところによると、原爆が投下された時間に遠くに閃光を見たらしい。祖母は近所の子どもが鏡で遊んでいるのだろうと思ったらしいが、実はそれが原爆が炸裂した瞬間の閃光だったらしい。


 地理的条件から考えて祖母の記憶の信憑性には疑問があるが、その話を聞いたときに僕が思ったことは、祖母がヒロシマの記憶を共有しようとしているということだった。


 それが押しなべて広島県民気質だと言うつもりはないが、広島の人はどこかしらヒロシマを心の中に留めているような気がする。無学ではあったが心根の優しかった祖母は、同時代に起きた惨劇に無関係ではいられなかったのではないか。その思いが祖母の記憶を作ったような気がしてならない。

 僕は物心ついたときからヒロシマのことを思ってきた。

 それは広島の血を引く自分の半ば宿命のようなものだとも思ってきた。

 高校の時に熱中した大江健三郎がそのような僕のスタンスに拍車をかけたような気もする。


 高校から大学にかけて、徐々に政治的な自我が覚醒してきた。そのころからどちらかと言えば保守的な立場をとり続けている自分ではあるが、こと原子力の問題については、ずっと引き裂かれるような思いを感じ続けている。


 たとえば原子力発電問題、たとえば核抑止の問題。


 僕は原子力発電にどちらかと言えば賛成の立場だし、核抑止論に100%与するわけではないが、その必要性をある程度認める立場でもある。


 しかし心の奥底に、そのような自分を引き留めようとする自分がいる。祖父や祖母から引き継いだ血の記憶がそうさせるような気がしてならない。理と情の問題だと簡単に割り切るわけにはいかないが、そんな側面があることも否めない。

 たぶん僕はこれからもそのような引き裂かれた思いを生きていくのだろう。

 でも今はそれでいいと思っている。

 引き裂かれている間は僕はヒロシマを忘れないし、ヒロシマに心を寄せ続けるのだから。

 チェコの作家、ミラン・クンデラの言葉は僕の永遠の座右だ。

 「人間の権力に対する闘いは、記憶の忘却に対する闘いである」

 僕がヒロシマを記憶し続けること、そして祖父がその記憶を僕に継いでくれたように、僕もこの記憶を次の世代に受け渡すこと。

 誰に課されたわけではないが、それを自分の責任と思いつつ、僕は74回目の8月6日に祈りをささげる。

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