• 松崎 丈

【鉛頭一割】読書会を機に思ったこと

 先日、伏見憲明さんの呼びかけによる読書会にお邪魔をしました。


 課題図書は三島由紀夫の『禁色』、文庫版にしておよそ700頁に及ぶ長編で、ウィキペディアには「『仮面の告白』と並ぶ代表的な男色小説」と紹介されています。


 ほぼ面識のない10名の方々(中にはこちらが一方的に存じ上げている方もいらしたが)に囲まれての約2時間。


 初めにコーディネーターのKさんによる『禁色』の作品解説と伏見さんによる補足的解説があり、そのあとで参加者が思い思いの感想を述べる形で進められた読書会は終始穏やかなムードでした。

 見も知らぬ人々との間に、それがたとえ一過性のものであったとしても、一つの作品を媒介にして形成される緩やかなつながり。他の参加者の方の感想を伺うたびに、はたと気付かされる自分にはなかった視点、視座。そのようなものに触れるたびに、この集まりに参加したことを喜ばすにはいられませんでした。

 その一方で、「もっと聞きたい!」「もっと知りたい!」という思いがふつふつと湧いてくるのは、若いころとまったく変わらないカルマと言わざるを得ません。もちろんそこには「もっと話したい!」「もっと闘論したい!」という相変わらず目立ちたがりの性分がまといついているのでもあるのですが。

 作品を媒介につながる。その媒介は何でもいいと思のです。

 あるいは小説、あるいは音楽、絵画でも映画でも、もちろん演劇でも。そこに酒という触媒があれば、僕としては言うことないのですが。

 しかしそういう機会は、だんだんに減ってきているような気がします。たとえば読書会を開く学生の数は、僕が大学生だった20年前と比べてもかなり減少しているようです。(その「つながり」の形が変わっているだけかもしれませんが、同年代の友達と比べてもかなりのアナログ派な僕には、新しい形の「つながり」についていけていないだけかもしれませんが)

 年齢を重ねてくると「つながり」は向こうからやって来ないということも感じています。自然発生的なつながりというものには、いまだに相当な憧憬を覚えますが、しかしそう簡単に転がっているものではありません。自分から歩み寄って、自分から作り出さなければならないものだと感じています。

 その「つながり」の一つの形として、僕は今年、新しく劇団を立ち上げました。また現在は定期的な映画鑑賞会や読書会を企画しています。はじめは小さな集まりになると思いますが、最初の一歩とは常にそういうものです。その「つながり」が徐々に、心地いい程度にまで大きくなっていけばと思います。

 というわけで、結局宣伝になってしまいますが……。

 劇団 https://www.theaterkan.com/

 映画鑑賞会 https://mla2019.wixsite.com/home

 ご興味のある方はぜひ!

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