松崎 丈
【鉛頭一割】古本を読む歓びに
初めて古本屋に入ったのはいくつの時だったろう。
本が好きだった祖父に手を引かれて、商店街の隅の隅にある古ぼけた小さな古本屋の引き戸をくぐった時のことは、今でもはっきりと覚えている。

チビだった僕から見ると孤島の絶壁のようにそそり立った背の高い本棚。そこに詰め込むだけ詰め込まれて簡単には引き抜けそうもない大小不ぞろいの本たち。絶壁の足元にもびっしりと並べられた平積みの本。小さな小さな古本屋に溢れ溢れている本たち、ふうわりと漂う時を経た紙の香りに包まれた僕の心には、山の奥にじわじわと湧く清水のように、幸せな気持ちが満ちてくるのだった。
大きな書店で真新しい本を手にしたときの凛とした気持ちも悪くない。そのような本に臨むときは作家と差し向かいの対話がある。それが尊敬する作家の手になる作品の場合は特に、師匠と向き合って口伝で落語の稽古を受けているような、師範から厳しくも懇切な剣の指南を受けいているような、そんな気持ちになるものだ。
一方で古本を手に取るときの楽しみも、決して捨てがたい魅力がある。
古本にはしばしば書き込みや線引きが施されている。そのような書き込みが不得手だという人もいるし、その気持ちが全く分からないわけでもない。しかし僕は書き込みや線引きに出会うと、無性に嬉しくなってしまう。
真新しい本を読むとのが作者との双方向の交通だとしたら、古本を読むのは放射状の交通という感じがする。作家と自分以外に、その本が経てきたであろう読者の存在を感じることができるからだ。書き込みや線引きに行き当たるとその存在はますます強く感じられる。
自分も気になっていた箇所に書き込みや線引きがあると、「やはり、そうか!」と自分の読みに自信を深めることになる。自分が全くノーマークだったところに書き込みがあると、「おっと、そうきたか!」と意外な気付きがある。自分の読みと全く違った書き込みに出会うと「そんなこと、あるかいっ!」と思いつつも、立ち止まって自分の読みを見直すきっかけになる。

それはさながら、想像の上で読書会をしているようなものだ。しかも作者臨席のもとの読書会。こんな贅沢な時間はない!
また古本屋へ足を運ぶ楽しみもある。
大きな書店であれば、少々売れ行きに陰りのある作品も揃えてはいるが、しかしそれにも限界がある。しかし古本屋へ行けば思いもかけない本との出会いや再会がある。
新たな本との出会いもさることながら、一度読んで感銘を受けた本などと古本屋の本棚で再会すると、まるで昔の恋人に会ったような、古い友人に会ったような、しみじみとした喜びに包まれる。
そのような時は急いで自宅へ帰り、本棚からその本を取り出す。大急ぎでページをめくり、自分が施した書き込みや線引きを探し、その前後を読み直すと、まるで古いアルバムを開いたときのように、その作品を読んだ時の自分の外面も内面も思い出される。それは極彩色の油彩のような記憶の復元ではない。淡いパステル調の復元だ。しかしその淡さがまたいいのだ。
淡い記憶の上に今の自分の内面の模様が上塗りされる。そして改めてその作品との出会いを喜ぶ気持ちに包まれる。
本の虫なんて今日日はやらないのかもしれない。かつてある映画の中で「図書館に通う種族はまだ絶滅していないのかね?」などという台詞があって、暗澹たる気持ちで聞いたものだ。
その一方で、若い世代にもまだまだ本好きはいて、創意や工夫を凝らした個性的な書店もちらほら目にする。
そういう人々に接し、書店に接するたびに、妙な連帯感を勝手に感じて、僕もまだまだ本の虫でいようと思う。